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獣王になりたいとらねこ

小田島常陽とNullの長文Twitter的共同ブログ。
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歪みきったものとその果
貴方は、愛する人から「洗脳を受けた」ことがありますか。
なぜこんなことを突然言い出すのか。それは、これを見てもらえれば大方わかる。

説明は省こう、そして単刀直入に言おう。

私は、彼から洗脳を受けていた。そして、それに気がついていながらも、「捨てられたくない、だからこのままでいる」選択をし続けた。
私はこれまで、「見捨てられたくない」という強い気持ちと「どこまで自分を傷つける行為を見せつけたら離れていくのか」という試し行動を持って、彼に接してきた。ときには目の前で【  】する素振りを見せたりした。ときには、というには回数が多すぎるか。

この洗脳は、「本人は洗脳している自覚がなかったが、受けているこちらは認識していた」というパターンだ。

一羽の小鳥を逃さないように、その体から一回りほどの大きさしかない、羽ばたく素振りさえもできない小ささの鳥籠の中に押し込み、閉じ込め、そして

愛を囁いた。

そして私はそれを「甘んじて」受け入れた。それが「正しい」と、いや、「正しい愛情表現ではない」とわかっていながら、それを認め、受容し、自分の心に背き、ただ「彼の望む姿」になろうとした。

ただただ、「愛してほしかった」。それだけだった。

私は許容範囲が広いのか、それとも「おかしくなっている」のか、もうわからないでいる。ただ、愛する人に愛されて、離れてほしくなくて、離したくなくて、言われるがまま、誘われるがまま、そこにいた。

「もうやめにしよう」、そう綴られた九枚に及ぶ手紙で、私は鳥籠から解放された。解放されたが、私は今でも、「そこ」にいる。
彼が「教祖」であった。その「教祖」から「教団を解散する」という宣言をされた、一つの「終わり」であった。
嬉しいはずだった。その「終わり」は「新しい始まり」に過ぎず、これからの人生を「真っ当な姿で歩める」始まりである。
嬉しいはず。けれど、「突如として教団を解散した宗教を信仰していた人間」は、何を信じるべきなのか。真っ当な姿を信じたい。そうでなければいけないはずである。

洗脳の後遺症なのかもしれない。これまでの記録を全て目の届かない場所に保管し、鍵をかけた。
でも、当時の思い出に浸ると、あれはあれで、幸せだった。そう、思う。なぜ、私はあそこまで入れ込み、突き放さず、ときに突き放すような行為を見せて引き止めさせ、彼と生きたのだろう。

この感情は、私にしかわからないだろう。

誰にも、あの人は渡さない。あの人を誑かすような畜生には、罰を与えなければならない。だって、人間じゃないから。
彼こそが、私だけを見てくれる人で、私を愛してくれて、生きる理由で、死ねない理由で、ここまで私を狂わせた張本人だ。狂わせた責任は、しっかり取ってもらう。なぜって、私を「狂気の領域」に堕とし、様々な影響を与えたから。
想いはどこまで伝わるかな。伝わらなくても、理解らせるだけだ。周りはどうだっていい。彼だけでいい。








解散宣言をしても、崇拝し続ける信者は、現実に存在する。それと同じじゃないかな。もう、手遅れだと思うよ。それだけのことをしたんだ。憎くはないよ、当たり前だけど。ただ、私の目はもう、貴方しか追いかけられない。他の人を見る理由なんてないし。

翼は折れた。











私は、殺めてしまいたいくらい
| Nullの思い | 09:31 | comments(0) | - |