2025.07.08 Tuesday

共同ブログの管理者であるおだじま氏の個人サイトに「Nullの文言」として「人間の生命とは軽くも重くもなく、儚い」というものが掲載されていたが、まさにそうだと思っている。
重いとか軽いとか、そういう範疇にはなく、ただ平等に「儚い」のである。
それは、幾度となく経験してきた人の死や、ひいては自分の死に至る行為で学んだことである。
こんなことを言っていると「この人は病気だ」と捉えかねられないが、それでもいい。私は私でそう思っているだけなので。押し付けたりするつもりは一切ない。
ただし、私の中では「そうである」だけだ。
何度彼の目の前で首をくくる仕草をして全力で止められたのかもう数え切れない。
あげく自分自身で「やばい」と思った頃には精神科に入院している始末である。
たいてい3日くらいで出てくるわけだが、それでも入院しただけで人生観、死生観が変わるはずもなく、ただただ「とっくに生き抜きすぎていたが、なおも収まらぬ鼓動(もうたすからない/ワヲン氏より引用)」という言葉に対して、「ただ惰性で生きてきているのだから、しかたなく生きている」。ただそれだけなのだ。
人はいずれ死ぬ。それは確定事項だ。それが寿命、不慮の事故、他害、自害行為によるものであるかはその時にしかわからない。

私は「試し行動」が著しく酷い。それもこれも、ただ、「まだ止めてくれるのだから、この人はまだ私のことを大事に思ってくれているのだ」という安堵感を得るためだけだとしたら、悪癖にもほどがある。
これ、どうにかならないかな、とぼんやり考えているところである。

2025.07.03 Thursday

「すべての連絡先を削除したりアカウントを消して逃げる癖」
本当に悪い癖だと思う。そしてあとあと後悔するのは自分。
Twitter、Bluesky、mixi2、Discord、LINE・・・。
いろんなアカウントを消しては「一つ魂が消えた」として、「新たな自分」を生きようとする。それは、ただただ、関わりたくない人がフォロワーに一人でもできてしまったから、ただそれだけだったりする。それでも、今名乗っている名前を捨てて、まっさらな自分(アカウント)で生きようとする。今はSNSの類はやっていないが、それに似たようなことを昨晩行った。それも、「大切な人」に対してだった。ほんの些細なことだった。そんなことで?というような、本当に些細なこと。それでも私は「嫌になっちゃった」と、大切な人の連絡先をすべて消した。それから「もし気が変わったら・・・」という趣旨の連絡をSMS経由でもらって、「ばーか、私はまだ貴方のことが好きなんだよ」と送って、「今まで通り、では良くない。だからすこし付き合い方を変えよう」と言ってそれを「理由」とした。
ほんの20分ほどの間だったと思う、litlinkからも、このブログのリンクを削除したり、ブックマークから大切な人のサイトを消したりしていたが、すぐ復活させた。何がしたかったのか、もう思い出せない。おそらく、ほんの些細なことを「もう怒ってないよ」と言ったが「まだ怒ってるだろう」と指摘され、「情緒の不安定さは病気からくるそれではないように思う」とも指摘され、瞬間湯沸かし的に沸騰したのだと思う。文面でしかやり取りをしていないのだから、いくらでも取り繕えたはずだが、私はあえてそこで「あーわかりましたよ、全部消せば良いんでしょ、わかったわかった。こういう反応が貴方は気に食わないんでしょう。指先一つで全部消せるんだよ。」と送って全て消したのだ。あまりにも幼稚だったと思う。
そして一時の気の迷いで全て消し、あとから送られたメッセージを見て「ああ、この人は決して私のことを嫌ったわけじゃないんだ」と確信した。「さようなら」とも書かれていたが、私は「さようなら」なんて一言も言っていなかった。その時点では事実上「別れた」ことになっていたが、最後に「気が変わったら、連絡して。私はずっと待ってるから」と添えられていて、心臓が高鳴った。やっぱりこの人しかいないんだ、そう改めて思わされた。
その日は、手紙が届いていた。だが、開封する気になれなかった。今日になって開封して、驚いた。「回り道をしたとしても、手を取りって生きていこう、一途で何が悪いのか」と。

私が一番、ばかだった。
君はずるい人だ。

私達には決定的に苦手なことがある。SNSとチャットだ。この件ではっきりわかった。SNSで不要な発言をして相手を戸惑わせる、チャットで「そうと決まったわけではないのにそうだと深読みして思い込んで嫌な気分になる」ことが多すぎた。
だからこれからは、ショートメッセージかメールで一日数回程度のやり取り、それと手紙。この3つの手段のみでやっていこうという話になった。結果的に私が連絡先を絶ったのは「感謝」された。多分このままこの方式でやり取りを続けていたらもっと酷いことが起きていた可能性が十分にある。
現代人ながら、その手のものを使わずに生きるのも、ありなんだなと思わされた。

2025.06.25 Wednesday

何もできない日は存在してても良い。
何をするのも気力が湧かなければできない。当たり前だが、「何もできない」ことが苦痛なのだ。誰だってそうかもしれないけど。
こういう日は一日の流れが遅くて遅くてたまらない。早く夜になって睡眠薬を飲んで強制的にシャットダウンをしたいのだが、そういう日に限ってやたら一日が長い。
ひたすらベッドに突っ伏しているが、眠っているわけではなく、目を閉じているだけで、脳は覚醒している。
動画を見る気力もなければなにかゲームをすることもできず、作業をすることもできない。音楽を小さく小さく流してベッドに伏している。

しかし、「何もできない日」は存在してても良い。私は積極的に「休め」と他人に言いながらも自分の限界を知らず、気がついたらぶっ壊れている状態が多い。それに気がつけず毎回人とぶつかるのだが、いい加減学びたいところである。
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