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獣王になりたいとらねこ

小田島常陽とNullの長文Twitter的共同ブログ。
自分の望む性別
私は自分を表す性別として「女でもなく男でもなく、女でもあり男でもある」としています。一般的には「Xジェンダー」と呼ばれるものに近いでしょう。
というのも、自分の存在を定義するときに「存在はない(=null)」としているので、それに合わせるなら「どちらでもありどちらでもない」がふさわしいのです。
ただし、これは「Null」を名乗る上でそうしているわけではなく、元来持ち合わせた感覚です。
身体は女ですが、ファッションは特に女らしくもなく、男らしいわけでもないです。夏場はTシャツにジャージ、冬場は上下ジャージ、みたいなすごくラフな格好をしています。
髪も「女としては」短く、後ろ姿だけみれば「男子」に見えなくもないかもしれません。
実際、生まれてこの方髪を肩に付くまで伸ばしたことはなく、幼い頃は「ぼく」と道行く人に声をかけられたこともあるくらいです。
ただそのころは「ぼく」と呼ばれることに少しばかり嫌な思いをしていました。その頃は「自分が女の子である」ことをはっきりと自認していたわけです。
それが変わったのが高校生の頃。同級生の男子と付き合い、「高校生が及ぶには危険な領域」に入りかけたりしたときにふと違和感を覚えました。「私は果たして女なのか?」と。
その頃から急速に身体の成長が始まり、次第に身体は完全に「女のソレ」になっていきました。しかしそれとは反比例するかのように、自分の気持ちは「どちらでもないのではないか」と思うようになったのです。
そして、転機が訪れたのは高校卒業間際のこと。ずっと仲の良かった女子生徒と付き合うことになったのです。そこで確信に変わりました。「自分はどちらでもなくどちらでもあり、そして性的指向は『全性愛(パンセクシャル)』である」と。

現在は散々投稿しているように、「彼」と付き合っていますが、彼もまた、身体と心が乖離しています(一個前の記事参照)。
ただ私は「全性愛者」であり、彼のことを「男性」だと認識し付き合っていますし、「好きになった人がたまたまTジェンダーであった」それだけのことです。心が男性だから付き合っている、とか、肉体が女性だから付き合っている、とかそういうことは一切ないです。

話が性的指向の方にそれました。
自分はどちらでもありどちらでもない、と認識しているので、私のことを男性と思おうが女性と思おうがどちらでも構わないのです。それは相手の判断に委ねられています。
歌ってみたなどで声を晒しているので、肉体が女であることは明白ですが、読者さんや彼が「Nullは女である」「Nullは男である」「どちらでもない」と好きに判断してもらって構いません。
そうなると「Xジェンダー」というと少し違ってくるかもしれません。ただ、あの辺りは定義が非常に微妙且つ曖昧であり、人によって捉え方が違うので、わかりやすく説明するなら、というだけです。

何が言いたいかと言うと、「Nullはすべての領域に属していながらすべての領域に属していない、つまり存在しているし存在していない」ということです(飛躍しすぎ)。

好きに解釈してくださいね。
| Nullの思い | 11:31 | comments(0) | - |
愛憎
私の「彼へ向ける気持ち」が愛情から憎悪に変わることはない。それは確信している。理由を述べるとするなら、「これ以上の人はもう居ないし、いるはずもない」からだ。そして、私はこれまでの彼の行いに対して一切の憎しみを抱いていない。逆に「ここまでしてくれた」と、彼なりの愛情の示し方を理解しているからだ。
確かに私は狂わされた。が、謝罪はほしくない。それらを「嫌だ」とはっきり思ったことはなく、疑問には思っていたが、口にしなかった自分も自分だろうと思っているので。

私は基本、恋愛においては「捨てられた」と感じると途端に冷める。が、今回においては「捨てられるかもしれない」とは幾度となく思ったが、興ざめはしなかった。むしろ、「まだ捨てないでくれ、まだそばにいてくれ」という一心で「ついていった」。
被害者ぶるなよ、と言われてしまえばそれまでだが。
生きている理由も見いだせない自分に手を差し伸べたのは彼だから。私は生きなくてはならなくて、そのためには彼の存在が必要で、しかし私は抑えられない破壊衝動に身を任せ、自分の手をおぞましい罪で染めかけたこともあった。

私は、このまま堕ちていくのだろうか。どす黒いものが心のなかにある。それを解放してしまっては、すべてが壊れる。仕舞っておかなければならない。

と思ったけど、彼には全て見せつけていくことにする。だって、「楽しみにしてる」って言ってくれたし。
私の見せる幻覚も、そのうち本物になる。
幻は長くは続かない、そういったね。でももう幻ではなくなるよ。



どこまで、貴方はついてきてくれるかな。


さようなら、狂気を抑えてきた私。


私は確実に、「狂って」しまった。
| Nullの思い | 12:25 | comments(0) | - |
歪みきったものとその果
貴方は、愛する人から「洗脳を受けた」ことがありますか。
なぜこんなことを突然言い出すのか。それは、これを見てもらえれば大方わかる。

説明は省こう、そして単刀直入に言おう。

私は、彼から洗脳を受けていた。そして、それに気がついていながらも、「捨てられたくない、だからこのままでいる」選択をし続けた。
私はこれまで、「見捨てられたくない」という強い気持ちと「どこまで自分を傷つける行為を見せつけたら離れていくのか」という試し行動を持って、彼に接してきた。ときには目の前で【  】する素振りを見せたりした。ときには、というには回数が多すぎるか。

この洗脳は、「本人は洗脳している自覚がなかったが、受けているこちらは認識していた」というパターンだ。

一羽の小鳥を逃さないように、その体から一回りほどの大きさしかない、羽ばたく素振りさえもできない小ささの鳥籠の中に押し込み、閉じ込め、そして

愛を囁いた。

そして私はそれを「甘んじて」受け入れた。それが「正しい」と、いや、「正しい愛情表現ではない」とわかっていながら、それを認め、受容し、自分の心に背き、ただ「彼の望む姿」になろうとした。

ただただ、「愛してほしかった」。それだけだった。

私は許容範囲が広いのか、それとも「おかしくなっている」のか、もうわからないでいる。ただ、愛する人に愛されて、離れてほしくなくて、離したくなくて、言われるがまま、誘われるがまま、そこにいた。

「もうやめにしよう」、そう綴られた九枚に及ぶ手紙で、私は鳥籠から解放された。解放されたが、私は今でも、「そこ」にいる。
彼が「教祖」であった。その「教祖」から「教団を解散する」という宣言をされた、一つの「終わり」であった。
嬉しいはずだった。その「終わり」は「新しい始まり」に過ぎず、これからの人生を「真っ当な姿で歩める」始まりである。
嬉しいはず。けれど、「突如として教団を解散した宗教を信仰していた人間」は、何を信じるべきなのか。真っ当な姿を信じたい。そうでなければいけないはずである。

洗脳の後遺症なのかもしれない。これまでの記録を全て目の届かない場所に保管し、鍵をかけた。
でも、当時の思い出に浸ると、あれはあれで、幸せだった。そう、思う。なぜ、私はあそこまで入れ込み、突き放さず、ときに突き放すような行為を見せて引き止めさせ、彼と生きたのだろう。

この感情は、私にしかわからないだろう。

誰にも、あの人は渡さない。あの人を誑かすような畜生には、罰を与えなければならない。だって、人間じゃないから。
彼こそが、私だけを見てくれる人で、私を愛してくれて、生きる理由で、死ねない理由で、ここまで私を狂わせた張本人だ。狂わせた責任は、しっかり取ってもらう。なぜって、私を「狂気の領域」に堕とし、様々な影響を与えたから。
想いはどこまで伝わるかな。伝わらなくても、理解らせるだけだ。周りはどうだっていい。彼だけでいい。








解散宣言をしても、崇拝し続ける信者は、現実に存在する。それと同じじゃないかな。もう、手遅れだと思うよ。それだけのことをしたんだ。憎くはないよ、当たり前だけど。ただ、私の目はもう、貴方しか追いかけられない。他の人を見る理由なんてないし。

翼は折れた。











私は、殺めてしまいたいくらい
| Nullの思い | 09:31 | comments(0) | - |
人間の生命とは軽くも重くもなく、儚い
共同ブログの管理者であるおだじま氏の個人サイトに「Nullの文言」として「人間の生命とは軽くも重くもなく、儚い」というものが掲載されていたが、まさにそうだと思っている。
重いとか軽いとか、そういう範疇にはなく、ただ平等に「儚い」のである。
それは、幾度となく経験してきた人の死や、ひいては自分の死に至る行為で学んだことである。
こんなことを言っていると「この人は病気だ」と捉えかねられないが、それでもいい。私は私でそう思っているだけなので。押し付けたりするつもりは一切ない。
ただし、私の中では「そうである」だけだ。
何度彼の目の前で首をくくる仕草をして全力で止められたのかもう数え切れない。
あげく自分自身で「やばい」と思った頃には精神科に入院している始末である。
たいてい3日くらいで出てくるわけだが、それでも入院しただけで人生観、死生観が変わるはずもなく、ただただ「とっくに生き抜きすぎていたが、なおも収まらぬ鼓動(もうたすからない/ワヲン氏より引用)」という言葉に対して、「ただ惰性で生きてきているのだから、しかたなく生きている」。ただそれだけなのだ。
人はいずれ死ぬ。それは確定事項だ。それが寿命、不慮の事故、他害、自害行為によるものであるかはその時にしかわからない。

私は「試し行動」が著しく酷い。それもこれも、ただ、「まだ止めてくれるのだから、この人はまだ私のことを大事に思ってくれているのだ」という安堵感を得るためだけだとしたら、悪癖にもほどがある。
これ、どうにかならないかな、とぼんやり考えているところである。
| Nullの思い | 20:53 | comments(0) | - |
身辺整理と称して人との縁を切る癖
「すべての連絡先を削除したりアカウントを消して逃げる癖」
本当に悪い癖だと思う。そしてあとあと後悔するのは自分。
Twitter、Bluesky、mixi2、Discord、LINE・・・。
いろんなアカウントを消しては「一つ魂が消えた」として、「新たな自分」を生きようとする。それは、ただただ、関わりたくない人がフォロワーに一人でもできてしまったから、ただそれだけだったりする。それでも、今名乗っている名前を捨てて、まっさらな自分(アカウント)で生きようとする。今はSNSの類はやっていないが、それに似たようなことを昨晩行った。それも、「大切な人」に対してだった。ほんの些細なことだった。そんなことで?というような、本当に些細なこと。それでも私は「嫌になっちゃった」と、大切な人の連絡先をすべて消した。それから「もし気が変わったら・・・」という趣旨の連絡をSMS経由でもらって、「ばーか、私はまだ貴方のことが好きなんだよ」と送って、「今まで通り、では良くない。だからすこし付き合い方を変えよう」と言ってそれを「理由」とした。
ほんの20分ほどの間だったと思う、litlinkからも、このブログのリンクを削除したり、ブックマークから大切な人のサイトを消したりしていたが、すぐ復活させた。何がしたかったのか、もう思い出せない。おそらく、ほんの些細なことを「もう怒ってないよ」と言ったが「まだ怒ってるだろう」と指摘され、「情緒の不安定さは病気からくるそれではないように思う」とも指摘され、瞬間湯沸かし的に沸騰したのだと思う。文面でしかやり取りをしていないのだから、いくらでも取り繕えたはずだが、私はあえてそこで「あーわかりましたよ、全部消せば良いんでしょ、わかったわかった。こういう反応が貴方は気に食わないんでしょう。指先一つで全部消せるんだよ。」と送って全て消したのだ。あまりにも幼稚だったと思う。
そして一時の気の迷いで全て消し、あとから送られたメッセージを見て「ああ、この人は決して私のことを嫌ったわけじゃないんだ」と確信した。「さようなら」とも書かれていたが、私は「さようなら」なんて一言も言っていなかった。その時点では事実上「別れた」ことになっていたが、最後に「気が変わったら、連絡して。私はずっと待ってるから」と添えられていて、心臓が高鳴った。やっぱりこの人しかいないんだ、そう改めて思わされた。
その日は、手紙が届いていた。だが、開封する気になれなかった。今日になって開封して、驚いた。「回り道をしたとしても、手を取りって生きていこう、一途で何が悪いのか」と。

私が一番、ばかだった。
君はずるい人だ。

私達には決定的に苦手なことがある。SNSとチャットだ。この件ではっきりわかった。SNSで不要な発言をして相手を戸惑わせる、チャットで「そうと決まったわけではないのにそうだと深読みして思い込んで嫌な気分になる」ことが多すぎた。
だからこれからは、ショートメッセージかメールで一日数回程度のやり取り、それと手紙。この3つの手段のみでやっていこうという話になった。結果的に私が連絡先を絶ったのは「感謝」された。多分このままこの方式でやり取りを続けていたらもっと酷いことが起きていた可能性が十分にある。
現代人ながら、その手のものを使わずに生きるのも、ありなんだなと思わされた。
| Nullの思い | 19:39 | comments(0) | - |
何もできない日だってある
何もできない日は存在してても良い。
何をするのも気力が湧かなければできない。当たり前だが、「何もできない」ことが苦痛なのだ。誰だってそうかもしれないけど。
こういう日は一日の流れが遅くて遅くてたまらない。早く夜になって睡眠薬を飲んで強制的にシャットダウンをしたいのだが、そういう日に限ってやたら一日が長い。
ひたすらベッドに突っ伏しているが、眠っているわけではなく、目を閉じているだけで、脳は覚醒している。
動画を見る気力もなければなにかゲームをすることもできず、作業をすることもできない。音楽を小さく小さく流してベッドに伏している。

しかし、「何もできない日」は存在してても良い。私は積極的に「休め」と他人に言いながらも自分の限界を知らず、気がついたらぶっ壊れている状態が多い。それに気がつけず毎回人とぶつかるのだが、いい加減学びたいところである。
| Nullの思い | 11:24 | comments(0) | - |